今回ご紹介する事例があるのは、北海道・札幌市、地下鉄円山公園駅から徒歩2分という、まちにほど近い便利な立地でありながら、閑静な住宅街と豊かな自然が広がるエリア。この土地は、札幌の開拓期から約140年にわたり、お施主さまご家族が代々大切に受け継いできた、思い出が詰まった場所でもあります。
かつて家族でにぎやかに過ごしていた住まいも、子供たちが独立し、今ではご夫婦ふたり暮らしに。広すぎる住まいに、年々進んでいく建物の老朽化による不具合。これからの暮らしを見つめ直すタイミングがきていました。
お施主さまご夫婦の土地や家への深い想いを、楽しい老後の暮らしへとつなげるために、設計者が提案したのは、「思い出を引き継ぎながら、地域とつながる」——住まいの一部をテナントや賃貸として開き、人と分かち合う新たな住まいのかたちです。
住み慣れた家の一部を活用し、地域に向けてやさしく開く。
この土地に刻まれた記憶を守りながら、誰かと空間を共有することで生まれたのは、過去と未来をつなぐ、あたたかな賃貸店舗併用の住まいでした。
今回の改修は、長年親しまれてきた建物の面影を残しながら、新たな暮らしへとつなぐことをテーマに、できるだけ既存の構造を活かすことを前提に進められました。
外壁はそのまま残しつつ、内部をすべて解体してフルスケルトンに。さらに、新たに増築した部分にはトラス架構を採用し、既存の建物の屋根に覆い被さることで、開放感のある空間を実現しました。
このトラス架構は単純に大きな空間を作るだけでなく、既存の建物と接続する箇所を絞ったことで、解体範囲を最小限にとどめ工事の手間を抑えています。そのおかげでかつての佇まいがしっかりと感じられる、新しい空間が完成しました。
住居部分は、年配のご夫婦がこの先も快適に暮らせるよう、1階で生活が完結するバリアフリー設計に。既存の建物に片足を残しつつ、自然に増築側へスライドするような構成によって、日々の動線もスムーズに。新旧が寄り添いながら、暮らしにちょうどよく馴染む住まいとなっています。
写真左側のグレーの壁は、かつての住宅の外壁をそのまま残したもの。そこに這っていた蔦もそのままの姿で残されており、長い年月を経てきた建物の記憶を感じられます。
リビングダイニングは、天井の高さを活かしたユニークな設計が魅力。高窓から差し込む自然光が、ポリカーボネート素材の天井を通してやわらかく拡散され、部屋全体に心地よい明るさが広がります。
リビングの一角には、斜めに切り取られた小さなスペースが。ご主人の希望でつくられた、個室を兼ねた喫煙ルームです。ガラスでゆるやかに仕切られているため、こもり感がありながらも、家族の気配をほんのりと感じられる心地よい距離感が保たれています。
かつて、住居の玄関とリビングの腰高窓だった場所は、それぞれ貸し店舗と共同住宅の共用部への入り口として新たに生まれ変わりました。
共用部の扉を開け放つと、建物前の空間とゆるやかにつながり、まちの一角にちょっとした“広場”のような場所が出現。誰でもふらりと立ち寄れる場として、地域との新しいつながりを育んでいます。
写真の左側、半透明のポリカーボネートの仕切り越しに続くのは、テナントスペース。共用スペースはその延長として、まちの人々がふらりと立ち寄れる、温かな交流の場になっています。
奥に見える階段や廊下から賃貸の各部屋へアプローチでき、共用部の賑わいから少し距離をとりながらも、気配を感じられるような、心地よい関係性が保たれています。
テナントに入居しているのは「Watral」という生活用品店。店主が製作するアンティークリネンエプロンやオリジナル商品を中心に、季節に合わせた生活用品を取り揃えるお店です。
オリジナルブレンド珈琲などがテイクアウトできるカフェスタンドも併設しています。
共用スペースでは、不定期に多彩なイベントが行われており、貸出を目的とした施設ではないものの、地域の交流の場として活用されています。
店舗と隣接し内側からも行き来できる共用部では、晴れた日には内側の扉を開放して、店舗と一体となった空間に。店舗で受け取ったドリンクを手に、店主とお客さまが談笑する姿も見られます。共用部にお店の商品が自然とはみ出し、前の通りとゆるやかにつながる、路地裏の商店のような雰囲気に。
近所の方と新しくつながったり、交流の機会が少なくなったこのご時世。建て主の奥さまはこの増改築をきっかけに、共用部で開かれるワークショップに参加するようになり、老後に向けて少しずつ社交の輪が広がっていったといいます。
最近では、入居している店舗のスタッフさんが自宅を訪れ、一緒にお味噌作りを楽しんだり、新年を共に過ごすなど、温かなつながりが生まれているそうで、暮らしに少しずつ変化が訪れ、豊かな時間を楽しんでいる様子が伺えます。
今回の物件では、『ミルクガラス』が空間の中で重要な役割を果たしています。シンプルでありながら程よい存在感を放ち、空間の良いアクセントとなるため、暮らしの灯りとして心地よい雰囲気をつくり出すことはもちろん、看板的な使い方にも適しています。
本事例でも、外壁に取り付けたミルクガラス照明にサインペインティングを施し、看板灯としても活用。やわらかな光を放ちながら、訪れる人をやさしく迎え入れます。
お施主さまご夫婦の場所と家への想いを汲み取り、豊かな老後の暮らしへとつなげた今回の住まい。かつての長屋や団地のように、住人同士や地域の人々との交流が生まれ、日々の暮らしに温かなつながりを感じることができる新しい住宅のかたちが生まれました。
一見すると珍しいケースかもしれませんが、老後の暮らし方や賃貸住宅の在り方について、新たな視点や気づきを与えてくれる素敵な事例です。
塩入勇生+矢﨑亮大 | ARCHIDIVISION
住宅の新築、リノベーションの設計を中心に、店舗・
限られた予算の中でも実現したい空間について、
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